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残日録

[133] 09/22/2000
 なんか、またバカなことを。
IT教育にお金出すんだって。実現しなさそうだけど。
英会話学校にお金出すのと同じくらい馬鹿げていて効果の無い政策ですね。
いかにもITを理解していない、使っていない人間の考えそうな政策。
そもそも、ITの本質は人減らしによる効率化にあるはずなのに、そこら辺のことをちっとも分かってない。
会社で人が減るんだから、IT化だけで雇用が増えるなんて考えるのは完全な間違い。
大事なのは、IT化で会社毎の雇用が減っても、それを補って余りあるほど会社が興される/会社を興せるようにすること。
また、確かに技術者供給は追いついていないけど、そんなお金をもらって勉強するような人間は多分ろくな技術者にならんでしょう。
やる気のある人ならお金なんて出なくてもちゃんと勉強します。
また、そもそものボトルネックが本当に資金不足で教育を受けられないところにあるのか。
その辺をよく考えないといけないでしょう。
そのボトルネックを解消するのが大事なんですから。
で、私はそのボトルネックはIT教育機関、教育者不足の方にあると思うんですよね。
そっちの拡充の方にお金をかけてはどうなんでしょう。

 また、奉仕活動の義務化なんて馬鹿なことも言ってますねぇ。
そんなこと義務でやるようなことじゃないでしょうに。
自らやりたいと思わせるような方向に持っていくことができない無能者の政策ですな。

 昨日、三重県鳥羽市の鳥羽水族館に久々に行ってきました。
入館料、ぼってました。
いくらなんでもあれは高すぎ。
それに見合うだけのものがあれば良いんですが、無い。
いや、あるのに、ディスプレイが下手くそで見えない。
大体、物陰に隠れる魚の水槽に、魚が隠れて全く見えなくなるような陰を作ってはいかん。
魚にストレスを与えないように、かつ客に見えるように、「頭隠して尻隠さず」な陰にしないと。
また、底を這いまわる魚の水槽の底が真横から見えないようになっていてはいかん。
そういう見えない陰に隠れるに決まってるやんけ。
というわけで、せっかくの魚も見えない場所に隠れてしまっていることが極めて多かったです。
あれでよく潰れないもんですね。

[132] 09/20/2000
 最近、私は機嫌が悪い。
というのも、JASRACのせいである。
先日、JASRACはネット上での音楽の掲載に対して課金する方針を打ち出した。
まあ、それは何も問題ではない。
著作権者に対しきちんと還元されるならMP3ファイルなどには課金されてしかるべきである。
しかし、問題はMIDIにまでとばっちりがきていること。
MP3とMIDIは全く別のもので、MP3のような「コピー」とは違うにもかかわらず、十把一絡げに課金するというのである。
それも同時に送信可能にする曲が10曲までで一年間1万円という途方も無い金額である。
(毎月曲を入れ替えれば120曲、毎日入れ替えれば3560曲が一応使える。)
ふざけるのもいいかげんにして欲しい。
この件に関し、
EternalWindでは掲示板での議論が続いている。
さて、月刊アスキーではこの件に関して「ネットのちへいせん」でJASRACへの取材が掲載されている。
一部引用してみよう。
「払う側から見れば、かなり気楽な金額ではある。少なくとも個人が気楽に払える金額ではある。
中略
『おこづかいの範囲』とも言える、今回の規定になったのだという。
中略
個人での音楽利用に積極的に門戸を開くのは今回の規定が『世界でも初めてではないか』という。
中略
来年は、個人サイトが音楽ルネッサンスを迎える年になるかもしれない。」

このライター、バカ丸出しですね。(笑)
まず、1万円という金額。
本当に気楽な金額か?
MIDIで作曲/編曲を勉強したりする、実際のMIDIユーザーって1万円が気楽に払えるような人間でしょうか?
はなはだ疑問ですね。
第一、毎月、毎日入れ替えさえすれば無限に近い曲が利用できるのですが、そんな手間かけてられるわけが無いでしょう。
また、前述のEternalWindみたいなサイトは事実上成立しなくなってしまい、未来の音楽家養成の道が確実に一つ絶たれることになります。
単なるリンク集兼掲示板サイトにすれば成立はしますが。
万一課金するのが正当だとしても、MIDIデータの場合、完全なコピーとはならないことなども考えると無限の曲数で一年につき1万円、学割制度付きが妥当なところだと思います。
実際、この課金方法ではそれと大差無いですし。
また、JASRACは個人の音楽利用に門戸を開くという形のつもりでいるようですが、これも大きな間違いですね。
これまでは黙認の形をとっていたのから課金するというんですから、全然開いていない。
むしろ閉じているでしょう。
もう「世界で初めてのMIDIに課金するバカ公的機関」ですよ。これじゃ。
まったく、MP3との区別ができていないからこういう事になるんですよ。
もともとジジイが老後を過ごすための集金機関としてのイメージと、MP3との区別ができないような無能さでは、きちんと著作権者に還元されるのかも信用できません。
これでは事実上この機構は機能しないでしょう。
そして、「音楽ルネッサンス」どころか、多くのサイトが地下に潜る「暗黒の時代」になることでしょうね。
興味がある方はぜひ上記サイトの掲示板の議論に参加してみて下さい。

[131] 09/11/2000
 読売OnLineより、『国大「5教科7科目」義務付け』。
国立大学協会は大学生の学力低下の原因を全く理解していないのですね。
最下端に
『大学関係者の間では近年、「生物を知らない医学部生」「数学を学んでいない経済学部生」などが問題化。「軽量入試」の影響で、高校生が限られた科目しか勉強しないことによる「学力低下」が指摘されていた。』
とありますが、その原因は受験科目が少ないためではない。
生物を使わずに医学部を受験できることが問題なのでは。
なのに、5教科7科目では国大医学部受験は今までどおりではないか。
まあ、「数学を学んでいない経済学部生」はいなくなるでしょうけど。
しかし、学力低下ってのは受験科目が減ったり、易しくなっていることが原因ではないと思うんですよね。
一番の原因は私は、受験生が納得できない受験制度、生徒が納得できない大学の教育制度にあるのではないのでしょうか。
現在の制度では本当に学力によって合否が決まる制度ではない。
また、大学が名前で選ばれており、内容や教授の研究などで選ばれてはいない。
これは大学に入った後の紹介が少なすぎるのと、大学のブランド化が原因です。
このような状態では本当に専門を「やる気」がある人間など集められようはずがないではありませんか。
「やる気」の無い生徒が集まったところでいかに受験時に優れていようと勉強はしないし、必要なくなった科目など忘れていくことでしょう。
また、私の場合は専門科目はやる気ありまくりですけど、数学など、専門外の科目は全くやる気ありません。
単位を取るためだけに無駄な時間を過ごすことに納得ができないからです。
全く役に立たないと知っていながら一体誰が勉強するというのでしょうか。
この無駄が多すぎる制度に納得がいって勉強できる者が合格する/単位取得できる制度だと思います。
数学関係者は「数学は論理的思考を身に付けるために必要だ」とかいいますが、それを論理的に説明できた人を見たことがありません。
私は数学で学ぶのは必ずしも論理的思考ではないと思うんですよね。
論理的思考ではない、というのは不正確で、正確には「論理的思考というよりも数学的思考」と呼ぶべきものだと感じるのです。
その根拠は、「数学から学ぶから」。
当たり前ですね。
そして、論理的思考でも「生物学的思考」は数学では学べないと思います。当たり前ですが。
つまり、私は数学的思考だけでは論理的思考と呼ぶのはふさわしくないと思うのです。
そりゃ、数学的思考も必要ですけど、その思考方法の養成に本当に微分積分が必要でしょうか。
私にはとてもそうは思えません。
論理的思考を身に付けるには数学、生物、国語などなど、さまざまな科目を学ぶ必要があると思います。
しかし、それはあまりに各論化した高等教育のものではだめだと思うのです。
小、中学校教育においてそれはなされるべきで、高校教育や、大学教育でやろうなどというのがそもそもの間違いなのではないでしょうか。
そこでやろうというのは、それまでに身につけるべきなのに、それまでに身についていないということを表しているのではないでしょうか。
すなわち、小、中学校教育が間違っているということを示しているのではないでしょうか。
そこら辺を何故文部省は、国大協は理解できないのでしょうか。
私が教育改革をするなら、文部省などとは全く違う改革をすることでしょうね。
私なら小、中学生時代にしっかり基礎を身につけさせ(論理的思考を身に付けさせ)、高校、大学以上では専門科目に集中させることでしょう。
それなら無駄が無いからです。
高校以上で学ぶ専門的知識など実社会では無駄以外の何物でもない。
(当然、私の専門の生物、地球科学も勿論。)
といっても、全く学ばなくていいというのでは、忘れていってしまうことでしょう。
そこで、授業は受けさせて、テスト時に、各科目毎に単位を付与するのではなく、各科目テストの総合点で進学を認定するようにすれば、継続して学ぶことは続け、テストでは得意科目で高得点を取れば不得意科目は0点でも進学できるわけです。
大学でも、単位認定において、「優」を「良」や「可」に落とす代わりに「不可」を「可」に引き上げるなどの措置を実施すればよいでしょう。
しかし、これでは、「現在の受験生は受験で使う科目しか勉強しない。これでは学力低下がますます進んでしまう。」という反論があるでしょうが、それは生徒が選択することです。
学力など本人が必要ないと思うのならそれで良いではありませんか。
たとえそれで不利益を被るとしても、それは本人の責任であることをきちんと説明すれば全く勉強することがなくなるのはむしろ減ると私は思います。
小、中学校においてきちんとその判断ができるように教育されており、勉強することの利点が説明されていれば。
要は、今は勉強することの利点が説明されないままに無理矢理やらせているからだめなんだと思うんですよ。
それに、小、中学校では学習量の削減が行われているにもかかわらず、大学受験でこのような制度が導入されれば、ますます塾への依存や休日の無意味化が進むことでしょうね。
成長において重要な高校時代の勉強の集中化も起こるでしょう。
勉強のし過ぎで心身に障害を負うことが冗談でなく増えるでしょう。
判断能力を早い時期に身に付けさせさえすれば、きちんと説明すれば皆ちゃんと勉強します。
義務化では何も変わりません。
義務化よりも説明をしましょう。
子供たちの判断能力を信じましょう。
性悪説を採るべきは小、中学校教育であり、高等教育では性善説を採るべきです。

 先日、去年に引き続き「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」に行ってきました。
私が見に行ったのは\3000と格安のチケットで、市民1000人が参加するコンサートです。
曲目はベートーヴェン 序曲「フィデリオ」 交響曲第5番「運命」 ヴェルディ オペラ「アイーダ」より「エジプトに栄えあれ」「凱旋行進曲」「来たれ、凱旋将軍よ」です。
なんか、都合で「凱旋行進曲」は省略されてしまったと思いますが。
最後の曲で、一瞬、場内が静まり返る瞬間、背筋に寒気が走るような感覚に襲われ、なんとも言えないものでした。
会場がいつもの松本文化会館ではなく隣の総合体育館だったのですが、まあ、値段を考えると仕方ないでしょう。
まあ、音響効果なんぞは私は実感できない人間なのでいいんですけど、パイプいすが重心移動でギィギィ音を立てるのがちと気になりました。

 先日からドラクエ7やってるんですけど、どーもストーリーなどはすべて完璧なのにいつもの絶妙なゲームバランスが見られません。
ボスによっては、使う技によって難度が全然違うんです。
後半のボスよりも前半のあるボスの方がずっと強かったりします。
たとえば、ヘルクラウダーというボスは仲間を呼ぶのですが、そいつがラリホーを使いまくるのでかなり難度は高いのですが、そのあとのボスはしばらく単体攻撃などしかし無かったりで楽勝です。
まあ、後のボスの方がやさしいのは構わないんですが、ヘルクラウダーなどの場合、プレーヤーやキャラの能力よりも「運」の方が大きく影響してしまいます。
これはゲームとして間違っています。
そういうのが許される、その方が良いゲームもありますが、ドラクエなどのRPGでは許されません。
何度もリセットすれば勝てる/しないと勝てないのはあってはならないと思うのです。
その点、ヴァルキリープロファイルがいかに絶妙なゲームバランスと戦闘システムだったかが実感できます。
ヴァルプロではどんなに強い敵でもプレーヤーの技と戦い方で何とでもなります。
逆に、何も考えていないと一発で死にます。
また、そこで重要なのは敵の弱点や能力を調べる魔法やアイテムですが、ドラクエでは無いですし。
というか、もうヴァルプロをやった後ではこの戦闘システムの限界が来ているのではないかと思います。
ドラクエは変わらないことが良い点だと思っていましたが、やはり変えるべき点はあったようです。
もっと「運」よりも「実力」がものをいう戦闘システムに変更すべき時が来ていると思います。
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